伏見康司 ふしみやすじ 株式会社伏見建築事務所
住宅建築の文化と大工
日本の木造住宅はその地域の大工が設計をし、自ら墨付けや刻みといった手を動かす作業をしながら、家づくりに関係する職人たちを束ねてつくってきた。昔からそこに住む人たちは、彼らの住まいを近くに居る大工に建ててもらい、また、修善が必要なときには近所の職人に委ね、手をかけてもらっていたのである。長らく同じ地区に住む人たちは、その地域には頼れる大工がいることをよく知っていたが、地域社会のつながりが希薄になった昨今、移り住んできた人たちにとってはそのことを知るすべはない。そして、営業がうまくない大工もまた、その人たちとの出会いを知らないのである。大工は生きていくためには仕方がなく、仕事を受注してくる住宅関連企業や宣伝が上手な工務店と付き合うようになった。最初はその経験や腕前を頼りにされ、大工が主導で仕事を進めていった。しかし、口が下手な大工は主導権を奪われ、口出しも許されないほど、その立場は逆転したのである。地元の地域での存在が薄れた大工は、仕事を提供される先がどんなに遠くても、そこが彼の仕事場になっていき地元の地域を離れたのである。金儲け主義の色が濃い住宅関連企業や宣伝が上手な工務店に勤めた大工は、いろいろな制約や流れ作業の一端を担うだけの環境の中で、仕事に対する気の入れようや、受注先との信頼関係が薄れていくことを覚える。挙句の果て、ものづくりとは呼べない歯車の一つにされ、使い捨て同様な扱いを受けた大工は、心を込めて手がけるべきものづくりができないまま、納得のいかない仕事を続けるのである。しばらくたって、気がついた時には帰る場所がなくなり、技能を発揮できる場をも失ったのである。
もとはといえば大工が唯一、住宅建築という一大事業を統括し、請負ができ得る経験を積み重ねた結果、優遇されてきたことは事実である。だからこそ、謙虚でなければならなかったのである。仕事がいくらでもあるうちは、なにかにつけおろそかになり、一方的な要求や言動で仕事を押し付けるように、責任をも押し付け、自ら信頼を失った末のなれの果てが、前述の所以であろう。
住宅建築の仕様や施工の手引きなどというものは、住宅金融公庫が率先をして書き綴ってきた。これを大工が先導して書き記しておくべきだったことを最近痛感した。現行の仕様書においては手引きというよりは教本である。親方から手ほどきされ、言い伝えられた職人の技能だけでは示しがつかなかったのだ。施工精度や手法、あるいは考え方にばらつきが著しかったのであろう。現に今ある多くの信用とは代々受け継がれたものではなく、科学的な数値や根拠に基づいた手引きなのである。独自の手法では施工ができなくなった職方は、排除される一途をたどるか、言われるままの仕事しかできなくなった。意味のない仕事は無いはずだが、意味があるとは思わないことを言われるがまま施している大工がいるのも事実である。身近にはこれから必要になる「意味ある仕事」を十分に説明すると、自ら手を挙げて施工者講習に参加の意思を示してくれる大工がいる。それが全てではないが納得ができる仕事とはそのようなところからも見いだせるのかもしれない。地域に根付いた大工たちの技能は先輩たちから受け継がれた昔ながらの技量であり、それ以上でもそれ以下でもないのである。あたりまえのことがあまりに出来なかったことが、淘汰された者と存続できている者の差ではなかろうか。今の仲間たちとは後者でありつづけたい。
墨付け、刻みをする大工たち (株)伏見建築事務所作業場
残すための役割分担、「文化」とその使命
大工として納まりを考え木づくりや造作での細工をし、つくり上げたものを喜んでもらえることを繰り返せたらどれだけ幸せかわからない。しかし、そればかりをしていると残るものも残らないのだ。腕の立つ大工が優れた請負師であるかというと、えてしてそうではない。だから、ほどほどの腕の大工が請負師として続けていくための方策を考えることがその使命のひとつになる。昨今では中小零細であれ、企業団体である以上は、決まりごとに縛られる。安全衛生面、社会保障の類にまで至る。ものづくりのことだけを考えているだけでは、世の中には通用しないのである。現場作業者の心得や独自の施工手引きなどを考える。たかが「町の工務店が」である。言いたくないことも言わなければ存続ができないのも事実として痛感する。自分だけが良いということは、自分の時代だけで終わるということに等しい。技能や技術の継承は、自分を楽にするために子供を育てることではないかもしれないが、結果的にはそういうことだろう。流行るものは廃ると言われるが、「文化」とはそういうものであってはならないのである。日本の住宅建築はそれぞれの地域が保有する「文化」である。そういう世界に居る以上はそう考えたい。現在の住宅産業は「文化」を宣伝文句に、時代の流れに乗りかかるもうけ主義たちの大行列だ。それらと町の工務店が必死でもがきながら継続していることが、同じ方向を向いていると誤解をされてはたまらない。まったく違う性質であることを訴えないといけない羽目に陥っている。今後どのようなことが建築の「文化」として、その本質を受け継ぎながら生業となるのだろうか。また、どこに夢や希望があるのかを、若手の大工たちに説きながら、そのやる気を継続させないといけない。生きる望みを持たせないと続かないのである。業界のわずかな人たちが、重厚に取り組まなければ、私たちの世代がいなくなると同時に次の世代もいなくなるだろう。強いて言えば「文化」は終わるのだ。しかし、継続をしていくために必要な事であるのならば、その労力を惜しんではならないのだ。誰かがやらなければならないのである。
今年で三年目になる大工の見習いとして勤める高卒の大工に向かって「大工は組み立て屋ではないぞ」と常々言い聞かせている。道具の手入れは親方だろうが子方だろうが自分自身で使いこなせるように手入れをするのは当然で、刃物は切れないと仕事にならないので、刃物研ぎが出来なければいつまでたっても、新しい仕事をあてがってもらえず、腕の上達などはできないのである。墨付け刻みの前に材料の見極めが出来なければ適材を適所に振り分けることなどできないので、森林の見学会に連れて行き、木の育ち方を学ばせる。製材所に連れて行っては原木の状態や原板の加工を見せて、製材をした後に木の癖が出ることを覚えさせる。木の上下左右を振り回しすることなども手を添えて教える。「仕事場は修行の場である」などと、今も徒弟関係にあるかのように言い聞かせるが現状はさほどきつくはない。今更そんなことを言って実践しようものならば結果は見えている。誰もついてこないのだ。ある程度は早い目に手を取ったりしながら教えてやると、効率よく身に着けてくれる。今では「お前にまかす」といえば自分で段取りをして、喜んで仕事に励んでくれるようにまでなった。給料を含めた待遇や将来の人生計画を、中長期、そして短期に言葉で示してやると同時に、夢や目標を持たせることで、やる気も持続できると考える。三十年前に私が弟子のころから聞かされたことはこうである。「将来のことなんて何一つわからない」けど「手に職をつけておいたら食いはぐれがないから。絶対に良いから頑張れ」などというような、おまじないは今の若者たちには通用しないのだ。
大工は今後必要とされるのだろうか。国の住宅政策の動向は、いずれにしろ、優良な住宅の普及とその維持が主流になるのは目に見えている。改修工事のうちでも、内装や外観の改装ではなく、構造体や化粧材の造作をいったい誰に委ねるのであろうか。点検や精密な診断後の改修となると、根継や差し替え、あるいは現物に合わせた木づくりや削り合わせ、そしてその造作といったようなことができる大工が何者にも代えがたい存在である。その存在が周知できていれば、引き合いには出されるだろう。それを信じて続けることが肝心である。「出番はこれからだ。」とよく言い聞かせてはいるが、そのことが嘘でないことを祈るだけ
である。
現場を任される若手大工 鉋掛けをする若手大工
継続するための地域社会とのかかわり
大工はどこに拠点を置くのだろう。いつ呼ばれるか呼ばれないかわからないところに属するだろうか。条件の良いところとは単価の良いという理由だけだろうか。誰しも決まった収入があればそれをやりくりする工夫をしながら、自分自身の生活水準を定め、日々生きている。かといって、条件の良いところだけを転々とすることによって信頼関係の構築は困難になる。まして地域とのかかわりは持てないだろう。そんな彼らとともに続けるためには、継続して仕事があることである。大工が休みなく継続して勤められる様に、現場作業以外で木の加工にまつわることを敢えてつくるなどして、手や頭を使う時間を設けている。それが安心して勤め続けられる拠点ではなかろうか。そんな工夫が信頼関係を構築するのである。
大々的に宣伝と広告ができない弱小工務店にとっての、最大の営業先は過去の施主とのつながりと言っても過言ではないだろう。快適な住空間が木の家であるとはいえども、引き渡し後に生活を始めてから発生する不具合といえば数多くある。大手の住宅生産企業はそのことをどう考えているのだろうか。できれば点検と維持管理の改修の時の営業だけに抑えたいのは目に見えている。こちらはどうかといえば、事前に周知しておくだけである。遠慮なしに施主は連絡をしてくれ、あたりまえの様に手直しをして、お茶でもいただいて帰ってくるだけだ。この繰り返しが次につながり、継続ができている所以である。この身軽さが最大の武器でもある。引き渡し後の施主は顧客ではあるが、あえて囲い込むのではなく、末永くつながりを持つこと以外に、大々的な宣伝に変わる術はないと考える。近所の友達が集える木の家は広く深くつながりを与えてくれると信じる。
地域での仕事を開拓するには、我々は職人としての質の担保を提示し、周知できる仕組みを作ることに工夫が必要だと考える。それはそんなにたいしたことではない。職域が違えども、国家資格の技術や技能の免許証、大規模な関係団体が行う検定の合格証、あるいは経験年数や経歴を提示できる仕組みはすでに存在する。それを住宅建築に携わる職人で網羅し、行政や自治体に向けて提示する。協同組合などを通じて周知することは、地域の活性化とそこに住まう人たちへの安心感を抱いてもらう術としては、最適な方法である。
先導事業から広がる視野
国や地方の行政が、環境の問題に絡めて森林に目を向け、広範囲の植林された地域が伐期を迎えるにあたり、その木材の利活用についてうまく経済や地域の活性化につなげるように仕掛けてくれている。それに乗ってというわけではないが、近くにある林業の盛んな奈良県吉野の地へ足を踏み入れる機会が多くなって初めて知ったことがあり、誘導された施策だけでは行き着かなかっただろうと思うことを実践している。
森林と建築とが切り離せないのは言うまでもないのだが、建築用材としての樹木を取り上げたときに広葉樹の雑木などとは違い、針葉樹においては人工的に植林されたものが多いのは周知の事実である。一方、戦時中の供出により伐採された跡地や戦後の住宅政策によって広範囲にわたり広葉樹を伐採した後に植林をした針葉樹と、室町時代に造林をされた針葉樹とは、今となっては同じかもしれないが、そこに存在する経緯が大きく違うことはあまり知られていない。そのうちの杉の木の使用用途はその時代の需要に応えた産業として変遷をしながら今に至っているのである。地方によりその用途に差はあるが、戦後に広範囲の森林で施された植林に対し、室町時代末期に造林がされたという記録が残る吉野郡川上村での植林は大きな違いがある。ここには歴史に残る宗教的な要素があり、それらの寺院の建造により失われた天然林の補充から始まっていると解説されている。その後、戦国時代の城郭に用いるところまでは、明らかに建築用材としてその用を成してきた。江戸時代の中期には樽丸の用材として、独自の技術を継承しながらその時代に合った用途が、たまたま活かされたのか、意図して活かされたかは別として、うまく循環をしていたということだ。
「森への見学旅行」と題して、施主や建築の関係者を案内する機会も数多くなってきた。実施当初は木の良さを知ってもらうことを大前提に訴えてきた。しかし最近は、室町時代から江戸時代、そして情報や通信の手段が緩やかに発達してきた時期にかけての樹木の育成の時の流れと、時代背景や経済情勢、あるいは需要と供給のつり合いとの時間の経過がうまく合致していたことが想像できる時代と比べ、昨今は時代の移り変わり、流行り廃り、技術の発達発展、文化の移り変わりという時間の経過と、樹木の育成に必要な時の流れとがうまく噛み合っていない。年輪が増えていくのに要する歳月は今も昔も変わらない。めまぐるしく移り変わる時代に、密植、多間伐、長伐期が特徴である吉野地方の林業を振り回すような施策には無理があるのではないかということを言い添えている。加えて、建築に掛ける時間は加速して少なくなっている。木は切ってから構造材として使用される材木としてその性能を発揮することを示すには、十分な乾燥が不可欠だと言われる。化粧材もしかりだ。水分が抜けた後でその色や艶がでてくることは、よく乾燥をした材を手に取るとよくわかる。時間をかけて育てられたものは、伐り出してから乾燥をするまでの時間、良材をより分け製材をするまでの時間、適材適所に振り分け造作するまでの時間は必然的にかかるのだ。いやかけるべきなのだ。視点を変えて付け加えれば、林業と植林をされた森林にはつきものの環境問題、そして、植林、手入れ、間伐といった有意義な循環とはどういったものなのかを投げかけ、答えが出ない現状を知ってもらうことが重要だと考え実施をしている。話を戻せば、これらの木の良さを十分に納得してもらう上で、住空間の一つとして身近に設えることを望んでもらえる人を増やすこと。吉野の森の現地で体感をしてもらうことで印象を付け、人に伝えてもらう作業の繰り返しをすることで、少しでも良い方向に向くことを願っている。これからの展開はどうなるかはわからないが、この活動を続けることは意義あることだと実感をしている。
吉野郡川上村 森の見学 吉野郡川上村 歴史の証人:吉野杉390年生
吉野郡川上村 吉野杉280年生